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母校の近辺や
周辺の様子を撮った写真です。

ホームページ開設のご挨拶

東京舟陵会会長 佐藤吉昭(高15回卒)

小千谷高校の校歌

1.
信濃川静かに流れよ
わが歌のつくるまで
つきせぬ思い若き日の
銀河にうつる高楼は

見よ八海の春高し
うぐいすは鳴く標の山
卯木の花を夢と摘む
ああこの学園の人々よ

2.
千の谷錦に織られて
黄金の杯に
名を彫り祝う知恵の倉
心をささげ学び行く

若き日うれし旅心
思いは遙か君が声
故郷にきく山彦の
ああこの学園の人々よ

東京舟陵会は総会のたびに、この校歌と旧制小千谷中学校、同高等女学校の3校歌を全員で歌ってお開きとします。在校時代とはまた違った感動がこれらの校歌を歌うと沸き上がってきます。2026年の東京舟陵会の総会及び懇親会は来たる5月30日(土)、東京新潟県人会館で11時30分から開催されます。詳細は第3ページをご覧ください。
さて、東京舟陵会のホームページが誕生して2年目となります。今回は1,000名を超える卒業式の皆さまに総会の案内状をお送り致しました。中には東京舟陵会そのものを知らない人達もおられることと思い、誕生当時と生みの親、金子鋭先輩の生きざまを振り返ります。


東京舟陵会は1957年、昭和32年に産声を上げています。戦後の復興から高度成長へと向かう、日本の社会が大きく変わろうとするときでもありました。先導役を果たした当時の富士銀行(現みずほ銀行)の頭取、金子鋭氏は、「新潟の片田舎から出てき、いまだ方言の抜けきらない小千谷高校の卒業生たちを、何とか励まそうじゃないか」と仲間を引き込みます。声をかけられたのが西脇順三郎先生であり、池田恒雄氏でした。

先導役の金子氏は敗戦後の日本を、銀行家として何とか復興させようと先陣を切った人でもあります。行員を育てるため、役員室を響かせるほどの叱責を飛ばし、失神させることもあったという伝説の持ち主でもありました。

会場の目黒の雅叙園も金子氏のつながりでした。広い会場、歴史を語る見事な絵画、何畳もある大名屋敷にあるような便所、普通ではとても行けないところでした。当時、参加した人たちの語り草にもなっています。「重厚な階段を上っていくと広い会場があり、車座に座っての飲み食い。しかも安い会費でしこたま飲んで食わせていただいた。上座に金子会長と西脇順三郎、池田恒雄氏の二人の副会長。緊張しながらお酒をつぎにいったことを思い出します。でも、あの便所にはたまげたこてやね」


1900年(明治33年)生まれ、1917年(大正6年)小千谷中学(第11回)卒、第七高等学校を経て東京帝国大学を卒業。
小千谷中学時代は新潟県の財政破綻により学校が廃校の危機にあい、そのピンチを払いのけるため、全校一丸となって学業成績県下一をめざします。トップ5を達成するとさらに頂点へ登りつめました。小千谷中学ここにあり。その在校生の中に金子鋭の名前が光っていました。東大時代には演劇を志し、舞台俳優を目指したと語っていますが、その後の人生を大きく変えた人物に出会います。長谷川如是閑です。夏の甲子園の前身・全国中学校優勝野球大会を、大阪朝日新聞の初代の社会部長として企画・創設に携わり、のちには日本国憲法の制定にかかわった人物でもあります。この人に師事したことにより、自分の身を敗戦後の日本の再建に力を尽くすことにつながります。同時にチームプレーで進んで行く野球への理解を深めていくきっかけにもなりました。

1963年(昭和38年)富士銀行会長、1965年(昭和40年)プロ野球コミッショナー委員就任、1970年(昭和45年)勲二等旭日重光章、1976年(昭和51年)第六代プロ野球コミッショナー就任、1979年(昭和54年)第六代プロ野球コミッショナー辞任。
プロ野球コミッショナー時代には、日本のプロ野球界に大きな変化を導いたドラフト制の制定にかかわり、また世間を騒がせた野球界の八百長事件、黒い霧騒動をさばいてきました。「物の決断に当たっては、私はすべて常識をもとにやってきた。またいかにスジが通っていても、結果の出ないものでは何にもならない。答えの出ないものは無駄にしかならない」

1979年(昭和54年)、巨人の空白の一日をつく江川卓との電撃契約騒動解決の道をつけ、「日本プロ野球界全体のため」とコミッショナーを辞任。命を削っての解決の道どりでした。
難局をいくつも解決して前に進んできた人生、大きな山を乗り越えると、趣味の海釣りに船を出して楽しむこともあったという。

小千谷市の白山球場、そこに金子氏の胸像が立っています。裏にこう記されています。
「金子鋭先生は、1900年(明治33年)3月17日小千谷町に生まれ、旧制新潟県立小千谷中学校、旧制第七高等学校、東京帝国大学を卒業、1969年(昭和44年)名誉市民となる。富士銀行頭取、第七代日本プロ野球コミッショナーをはじめ、数多くの要職を歴任され、1982年(昭和57年)2月24日永眠。金子先生の偉業を永久にたたえるため、ここに胸像を建立する。
1997年6月 東京舟陵会会長 池田恒雄 小千谷市長 小出 弘」


葬儀には長嶋茂雄氏が一番に顔を見せ、また自宅には田中角栄氏が弔問に訪れたという。
東京舟陵会は金子鋭先輩の野球殿堂入りの推薦母体となっています。


冒頭の6枚の写真は仲淳氏(小千谷市写真愛好家協会会員)が東京舟陵会に寄贈してくれたものです。編集子がサンプラザで見つけた写真が縁でした。氏はかつて小千谷縮みの「伝統工芸士」でした。当会の相談役上村敬介氏と小千谷中学時代の同級生という縁もあります。素晴らしい写真を有り難うございます。